2025.8.3「霊のうめき~その助け手~」宣教 水野英尚 ローマの信徒への手紙8章26~30節
私たちが心地良いとき、楽しい時には、「うめき」というものは出てきません。悲嘆に暮れる時、悲しみに沈むとき、悩み苦しむとき、そのような時に、私たちは「うめく」のではないでしょうか。批評家の若松英輔さんは、そうした私たちの「うめき」について、度々言葉を紡いでおられます。
「人は誰かの前で嘆くことはある。だが、うめかない。さらに言えばうめくことができない。うめくとは、真の意味で人が孤独であることを感じた時に起こる出来事だからだ。また、うめきは容易に癒されない悲しみの営みだが、同時にそれは愛(かな)しみの営みでもある。そして、うめきは言葉を超えた神への真摯な呼びかけにもなる。~声を上げなければ、誰も耳を傾けてくれない。それがこの世の常であることは理解できる。だが、それは神の前でもそうなのか。神は、声を上げる力さえ失われた人にこそ、寄添うのではないか。むしろ、神は、嘆きの声こそ最初に聞き届ける、そう思われてならないのである。」(若松英輔著『沈黙のちから』より)
〝神の霊〟による「うめき」は、私たちに何を語り、教え、導こうとされているのでしょうか。共に学びましょう。


