2024.5.12礼拝「痛みを知る~不幸を背負ったユダ~」宣教 水野 英尚 マルコによる福音書14章10~21節
哲学者の鷲田清一さんが、「人生の課題」として一つの問いから解放されず、問い続けてきたことがあると言います。それは、私は「いない」より「いる」方が本当に良かったのか?という「問い」だそうです。現在、75歳となる鷲田さんはこう綴っています。「何か他人の役に立てることをまったくしてなかったわけでもないし、またそうしようと時には力もふりしぼってきた。けれども、私がいたせいで厄介なめ、難儀なめにあった人も少なからずいる。私がいるせいで苦しんだ人もいる。私と関わることがなければ、別のもう少しましな人生を送れたのではないかと思う人もきっといるだろう。『功罪相半す』」(※功績と罪が半々で良いとも悪いとも言えないこと)という言葉があるが、私の存在もきっとそういうものなのだろう。とすれば、私はいなくても良かったということになる。つまり、私は『いない』より『いる』方が本当に良かったのかという問いに、私は結局イエスと答えられない。」(鷲田清一著『大事なものは見えにくい』より) 人生の終盤にあっても、「問い」から解放されないと言う。皆さんにとってはいかがでしょうか?